地球

現実では口に出さないように消化しておきたいこと。

クリスマスコフレを買えない女

20年以上生きてきて未だにクリスマスコフレを買ったことがない.

16歳の時に初めてクリスマスコフレという女の子の夢みたいな存在を知り,ジルスチュアートが大好きだった私は同級生が買ったキラキラのジルのコフレを眺めて,いつか買える日が来ることを夢見ていた.

しかし,貯金が300万円を超えても私はジルのクリスマスコフレを買えなかった.

 

リップ,本当に必要な色か?

アイシャドウ,全部まんべんなく使えるか?

プライマー,使ったことないのに必要なのか?

コスメ持ち運ばないのに本当にポーチが欲しいのか?

ずっと自問自答しつづけて,買った後の妄想をする.

きっと自分は眺めて予約してお金を払って受けとって,そこがピークなのだろう.

綺麗に並べて写真を撮って一度使えば満足するのだろう.

そして日常的に使うのは結局CLIOのアイシャドウパレットなのだ.

この一瞬の快楽のために8000円を超える大金をつぎ込むメリットはあるのだろうか,と考えてしまう.

 

ジルスチュアートが似合うのはせいぜい20代後半までだ.若いうちに気持ちを消化しておかないとその後の人生であの時手に入れられなかった物に執着することになるのかもしれない.大抵,今欲しいものは今の経済状況では買えないし,それが買える年齢になったらブランドのターゲット層から外れているのだ.貧乏人が若年層をターゲットにしたブランドに憧れるのは酷だ.

そういった考えのもと,年齢やコンプレックスという側面からの焦燥も感じていた.

それでも300万円あって買っていないということは,本当はそこまで欲しくないのかもしれない.とか言って,こんな文章を書いている時点で執着しているのは火を見るよりも明らかだ.

 

コスメを手に入れるためではなく,長年抱えているこのうだうだした気持ちを晴らすためにお金を払うという考えであればクリスマスコフレの購入もある種の投資と捉えられるかもしれない.人生は一度きりだし若い自分であるうちにジルのコフレを買うという経験を得るのもいいかもしれない.

考えすぎて結局今年も私はジルスチュアートのクリスマスコフレを買えない.

研究と就活と幸せと人生と

理系学生は院進して修士卒として就活するのがセオリーだ。研究職、開発職、技術営業職。募集要項には学部卒以上と書かれていても実際採用されるのはほとんどが修士という現実。みんなそんなことわかっていて、安定して良い給料が貰える職をより低倍率で掴むために研究をする。博士に進む以外の修士は就活の為に、または周りが院進するから取り敢えず院進して研究することを選んでいるのだと思う。知的好奇心による純粋な研究意欲があるならば博士に進むものだ。

そんな学生に教授が「何よりも研究を優先しろ」と迫るケースが往々にしてある。もし研究を優先してどこにも就職できなかったとしても教授は社会に席など用意してくれない。自分の人生の責任は自分にしか取れないのに、みんな無責任なのだ。

就活以外もそうだ。お金を払って獲得した研究する2年間という機会、それは自分の人生の上に乗っかっているものだ。研究が現在の人生のメインである人もいれば、研究はあくまで就職するための手段で他にメインがある人もいる。私は後者であり、みんながみんな研究の為に生きているわけではないし、寧ろそっちの方が少ないと感じる。

何を人生のメインにするかは人それぞれなのに、お金を払って機会を提供してくれている機関所属の人が「自分にとってはこれがメインだから貴方もそれをメインにしなさい」と押し付けるのはいかがなものだろうか。仮にそれをメインにして2年間を無意義に生きたとして、誰も責任は取ってくれない。教授にとっては仕事をしてお金を稼いでいる2年間で沢山いる学生の内の1人のたった2年間かもしれないが、私にとっては二十数年の内の一生取り返せない2年間なのだ。何をメインにして、何をサブにして、何のために時間と体力と気力を割くのかは他人に決められることではない。結局私が遂行し、責任を取るのだから。

研究以外の個人的な理由で辛かった時期、研究のことは微塵も頭に浮かんでこなかった。研究は生きる糧でも生き甲斐でも何でもない、人生で欲しいものを手に入れるための手段にすぎなかったのだ。極限まで追い詰められて最終的にここに引き留めたものが未練であり生きる理由になっていくのだと思う。

でも夢を叶えることが怖い。もし、その夢が実際には大したことなかったら?思い描いていた心が震えるような瞬間が来なかったら?誰かに阻害されて頓挫したら?今まで夢を叶える手段のために諦めてきたことや辛くても我慢したことが無駄になって何も残らないのではないかと考えてしまって怖い。夢を叶えてしまったら、夢があったから踏ん張れたことが踏ん張れなくなるかもしれない。次の夢が見つからないまま、あの時みたいな気持ちになったら何にも引き留められないかもしれない。

研究なんてどうでもいい。楽しくないし、面白くないし、心が震えない。修論を書いて卒業要件を満たして、修士号の恩恵を受けて給料の良い会社に就職して、社会的地位と生活を保証されながら自分のやりたいことをやる。仕事が楽しければそれを未練にすればいい。

だから研究如きに心や生活をかき乱されるのが嫌だ。ただの手段に心血を注ぎたくない。熱中したくない。しかし与えられた業務をこなそうとする自分がいる。期待なんて何の利益も生まないのにそれに応えようとする自分がいる。社会生活の慣例をなぞって世間体のために研究室に行こうとする自分がいる。

やるなら徹底的にやるべきだ。社会性を捨てストイックに自分のために生きるべきだ。寄り道して誰かの社会性に甘んじて甘い蜜を啜ろうとすべきではない。

そもそも社会も文化も人間によって作り出されたもので自然なものではない。お金も株も仮想通貨も自然界に存在しない。表彰も賞状も感謝状も人をタダで動かして競争させて物事の質を自動的に高めるためのシステムだ。夢が叶わなきゃ何も意味がない。

心が震えて脳内麻薬が溢れ出てくるような持続可能な幸せが欲しい。それが叶わないならどんな褒め言葉も悪口も暴言もいち動物が発した生理現象でしかない。

対等なのだ。地位とか職位とか、誰が偉いとか偉くないとか関係ない。みんな動物だ。後から都合がいいように付け足しただけで、不敬も無礼も善悪も存在しない。犯罪だって人工的だ。もし目の前で犬が互いに序列をつけだしたら笑ってしまう。犬は犬だ。それ以上でもそれ以下でもない。人間も人間だ。しかしそこに尊敬と軽蔑はある。それは気持ちの問題であり、本質的には動物の間に差はない。親、先生、教授、総理、天皇、犯罪者、飼い犬、捨て猫、全員平等であり、誰を尊敬し誰を軽蔑するかが自分の中で異なるだけだ。

ビルが全て倒壊して街が全部海に沈んで地球最後のボートにみんなが乗ったとき、全てが丸裸になる。細胞分裂の回数が違うだけのただの動物になる。自分にとっては地球全体が最後のボートだ。たまたま自分が自分であると認識できる知能を持った原子の集合体なのに互いに互いの尺度を押し付けあって評価しあって誰が上で誰が正解でと言い出す。

 

ここまでミクロなスケールで考えると本当に大学院の研究なんてどうでもいい。やりたい人がやればいい。好きな人が好きなだけ思うままにやればいい。それでたまたま利害が一致して助かる人がいる。自分のために誰かを救いたい人が研究を成功させて、誰かを救えて、自分が幸せになれることもある。お金を払って研究している限りは人助けの域まで到達できない。まだ研究ではなく勉強の延長だ。お金をもらってそれを生業として自分の想いが研究テーマになる人やお金をもらう手段として研究をする人が、誰かのためになる研究を続けていけばいい。それは修士の役目ではない。

自分の人生だ。研究を人生の主たる目的にするのか、他のものを生き甲斐にするのか、研究と就活どちらを優先するのか、すべて自分で決めて自分で責任を取るのだ。

どこまで行っても最後は1人なのだから。

「思いやりを持って」という呪い

優しさの形はひとつじゃない。

私にとっての優しさが相手にとっての無礼かもしれないし、その逆も然り。

それなのに、自分の優しさの形に相手の優しさの形が一致しなかったからといって怒る人がいる。

 

本当に相手は思いやりを持っていなかったのか?

自分が思いやりに気付けなかっただけではないのか?

「あの人は思いやりが足りない」と愚痴る人が優しさの目を持っていなかっただけではないか?

「優しさ」という曖昧且つ受け手によって捉え方が異なる尺度を相手にあてがうこと自体が「思いやりが足りない」のではないか?

 

朝、台所に放置されていた空のペットボトルを見て、「ちゃんとゴミ箱に入れて!」と怒る。本当は、夜中にラベルを剥がす音で家族を起こすまいと気を遣っただけかもしれないのに。

 

体調不良の時に友達からお見舞いLINEが来なくて、思いやりのない奴だと思う。本当は、体調不良の中で画面を見させたり返信させたりしないように友達が配慮したのかもしれないのに。

 

行動に対しては無限の解釈がある。自分が相手に思いやりを持つならば、また別の行動を取るかもしれない。だけど、きっと相手は相手なりの優しさを持って行動してくれたのだと考えれば、自分の優しさの定義に当てはまらない行動でも感謝の気持ちが湧くのだろう。

 

「周りの人が優しくない」と嘆く人は大抵物事への解像度が低い。自分の見えている事象が絶対的な真実だと信じて疑わない。だから、自分にとって優しくない行動であれば、相手は優しさを持って動いていないということになる。つまり、自分以外の人間は優しくないのだ。

 

行動の意図、相手の本音なんて結局明らかにならないケースの方が多い。だったら、「みんなが優しさを持って自分に接している」と思って生きる方が気持ちいいのではないか。

例えば、焼き肉を焼いている人が私の皿に小さい赤身肉、自分の皿に大きい脂身が多い肉を乗せたとする。

 

「この人は自分が大きい肉を食べたかったから私に小さい方を渡したんだ。なんて自己中なんだ」

「この人は私に美味しい赤身をくれて自分は脂身をもらってくれたんだ。なんて優しい人なんだ」

 

相手の真意はわからない。しかし、後者の捉え方の方が幸せな気持ちになるのは確かだ。

この考えを会話の中で相手に伝えるとすれば、前者は口論となり、後者は例え解釈が真実でなかったとしても次回から相手が期待に応えようと振る舞ってくれるかもしれない。

 

私は「思いやり」という言葉が大嫌いだ。母は私が幼い頃からずっと、私の思いやりには気付かないくせに「もっと思いやりを持って」と言い聞かせてきた。私の思いやりが母の思いやりに完全一致しない限り、私の思いやりは母の中で「我儘」になってしまうのだ。本人のニーズは本人にしかわからない。人は他人の気持ちを推測することしかできないのに、母は「人の気持ちを推測するな」と言い、母の気持ちの全てを完全に理解し、母の望む100点の返答をすることを私に求めてくる。

私の優しさをいつも母は「ドキンちゃんね」「どうせ私のことなんて何も考えてないんでしょ」と退けて、我儘な娘と可哀想な母親というレッテル貼りをする。

母は常に自分が被害者で周りが加害者だと思っている。自分が誰かを傷つけたことには気付かないばかりか、寧ろ自分が傷つけられたと声高に叫ぶ。

「思いやり」は母の口癖だ。

本当は「思いやりを持って」ではなくて「私にとって都合の良い行動を取って」「私のことを中心に考えて」になっているのではないか?

実は、日本の多くの親が「思いやり」という曖昧な言葉を隠れ蓑にして、自分の理想を子供に押し付けているのではないか?

 

優しさも思いやりも親切も色々な形がある。

客観なんてものは存在しない。私は私の外側に出ることはできない。どこまで客観に寄ったとしても結局すべては主観で主観の外側には出ることができないのだ。

自分の主観、子供の主観、友達の主観、すべて交わることなく独立していて、どれだけ思いやっても完全に理解することはできない。

思いやりも主観からは出られない。

だったら、主観の中で、優しい解釈の世界で、生きていきたい。

献血は自傷行為の代わりになるか

一昨年から献血にはまり始めた.初めての献血を試みたのは18歳のときだ.池袋の献血ルームに電話をかけて予約を取って行ったものの,朝ご飯を食べておらず献血はできなかった.下調べをしていれば食事と睡眠を取らなければならないことくらい知ることができたはずだ.私の献血への意識はその程度のもので,なんとなくいいことっぽいから行ってみようと思っただけだった.骨髄バンクにドナー登録していた留年生と「“善いことをしている自分”が好きなだけなのはわかってんだよな」と互いに言い合ったのを覚えている.

 

献血回数0回の献血カードを貰ってから月日が経ち,急にまた献血をしたくなった.その時はなんとなくではなく,明確に加害性を孕んだ動機を持っていた.

 

誕生日当日に親から蹴られ,終電間際の駅のトイレに逃げ込み,GPSで追跡されて帰らざるを得なくなった.

「次やったら携帯没収だからね,その携帯はママがお金払ってんだから」

暴力的な気持ちになった.可能であれば馬乗りになって親の顔を殴って「てめぇが望んで産んだくせにお金お金お金って毎回恩着せがましいんだよ」と叫びたかった.それが社会的規範から逸脱する行為であることは頭でよくわかっていたが故に,自分の衝動的な加害性をどこに向ければいいかわからなかった.自分の頭を殴っても頬を叩いても足りない.自傷行為の代表的な行動はリストカットであることは知っていたが,リスカが及ぼす将来への負の影響や周囲からの扱われ方について考えが至るほどには理性的であった.

 

それから一週間後,親が私よりもお金や携帯を優先する事案が発生し,親との揉み合いの最中「ここで死んでやれば親を一生後悔のどん底に叩き落せる!」と思い,部屋から走り出して団地の高層階から飛び降りようとした.しかし,部屋から団地の廊下までは少し距離があり,泣きながら走っている数秒間に自分が15歳から貯めたアルバイト代が口座に100万円以上残っていることを思い出した.死ぬなら全部使い切らなければ勿体ないのでは?Walt Disney Worldに行けずに死んでいいのか?柵に掴まって下を見て脊椎反射の如く考えを巡らせた.取り敢えず階段の踊り場で座り込んで泣き叫んだが,自分がパジャマでノーブラなこと,左足裸足で右足クロックスなこと,まだ歯を磨いていないことに気付いた.誰にも見られるわけにはいかない.見られたら通報されるかもしれない.一旦部屋に引き返し,キャリーケースに荷物を詰めた.親は「まぁ精々家出でも楽しんでくれば」と小馬鹿にして笑っていた.

アルバイトを欠席するなんて選択肢は頭になく,キャリーを引いて出勤した.塾長に,友達に会いに名古屋に行くと言い訳したら,「おう,楽しんできてな」と言われ,泣きすぎてパンパンに腫れた目で数Ⅰを教えた.夜の池袋は人でごった返していて漫画喫茶はすぐに見つからず,ガールズバーのキャッチのお兄さんに漫喫の場所を聞いたら親切に教えてくれてまた泣きそうになった.

個室に入って落ち着くと親との揉み合いで赤黒く内出血した膝と痛む足首に気が付いた.気持ち悪いし頭も痛いし胸も痛い.午前4時,教授にゼミを欠席するメールを入れた.ゴミみたいな気分だった.自分は理性的で冷静で感情に左右されない人間だという自負があった.自分だって曲を聴いているくせに弱者に寄り添う曲のコメント欄の自分語りが痛いと思う酷く捻くれた感性を持ち合わせていた.しかし,父親に説得されて家に戻る電車の中でReoNaの「生きてるだけでえらいよ」を聞いていたら涙が止まらなくなった.

自分はメンヘラじゃないしかまってちゃんじゃないし誰かから心配されたがる人間ではない.そして,自傷行為に及びたい本能と社会的に生きなければならないという理性がぶつかり合って得られた折衷案が「献血」だった.体重の下限があるため400mlの全血はできないが,血漿と血小板の成分献血であれば私でもできる且つ高頻度での献血が可能なのだ.大量に血を抜いてくれる上に献血の痕は極めて社会的だ.軽蔑どころか人によっては称賛だってしてくれる.自分に向けた破壊衝動を正当化し社会的意義のあるものへと変換してくれる素晴らしいシステムである.

※既に自傷行為に及んでいる場合は切り傷の関係で断られる可能性が高いので注意が必要(服薬中も献血不可)

 

献血記念品の若狭塗箸を貰った頃,親に献血咎められた.

「リスク背負ってまで血あげるなんておかしいんじゃないの」

高校生の時に自分の勉強のために車椅子での移動支援ボランティアに参加した.そのときも「ボランティアはやりがい搾取のただ働きだ」と言って非難した.

正直,ボランティアがやりがい搾取の側面を持つことには賛同している.しかし,ただ働きとは言い難い.勉強のため,自己満足のため,自傷行為を正当化するため.ボランティア活動をする人には他人にはわからないメリットがあるはずなのだ.私はすべての行為は自分のためだという考えを持っている.いくら「他人のため」と言っても根本的には「他人のためにしたい自分のため」であるはずだ.そこを勘違いすると「お前のためにしてやったのに(なんで返してくれないんだ)」という思考に至ってしまう.「お前のためにしたい自分のため」なのだから,感謝のカツアゲはお門違いだ.親には親の価値観があるが,この部分の価値観が壊滅的に一致しない.私たちは違う動物だ.

ぐだぐだと書いてしまったが,今日も左手にカイロを握り,カルアップを飲んで,ローラアシュレイの花柄の毛布に包まれながら社会貢献をして自分自身を満たすのだ.